『わたしは世の光です』 赤江弘之牧師 2024.04.28発行

 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

闇の中を歩む者 
 闇とは何か。地震によって停電したら真っ暗闇です。しかしここでは、神についての無知の闇のことです。神がわからなければ、人間は自分がどこからきてどこへ行くのかわからないのです。同じヨハネの12章35節に「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません」とあるからです。私たち人間が人間として生きていく上に必要な霊的光のことで、墓のかなたまでを照らし出す光のことです。どんな人でも、主イエス・キリストのもとに来るまでは、霊的に死んでいるのです。ヨハネの福音書は、1章で、イエスという方が「ことば」である永遠の神であり、創造主であり、闇に打ち勝つ光であったと書き始めています。

世の光とは何か
世の光は「いのちの根源からくる光」であり、「いのちを与える光」とも、理解されることばです。先に、霊的光のことを言いましたが、具体的な太陽光線のことをお話しします。誰もが知っている光のありがたさに気が付かないと、目に見えない霊的な恵みについて見落としてしまうからです。8章13節に、パリサイ人がイエスを信じない理由を伝えています。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません」と。これに対するイエスの答えは明快です。「あなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません」(14節)。この意味は、「あなたがたは、わたしが神から来たということを知らないのだから、わたしが超自然的な神であるということも知らないのだ」ということです。主イエスは、自然界を創り支配しておられるのだから、超自然の世界も、心の闇の世界も支配しておられることを知ってほしいのです。

太陽光は癒しの効果を表します。具体的に、有名な太陽光線療法があります。カーボンアーク灯治療器が我が家にもあります。また、太陽光線は紫外線、可視光線、赤外線3つがあります。人類は太陽の恵みとも言われる日光を享受して生きています。太陽光なくして生命は存在できません。

最近はソーラーパネルを利用して発電して、飛球温暖化防止に貢献しています。それに何よりも、太陽は炭酸同化作用によって、生物が炭酸ガスを吸収して酸素を大気中に吐き出します。この作用なくして,人間は地球上に存在できないのです。皆様方は、どれだけ太陽の存在に感謝しておられますか。どこかで、自然の恵みであって、有難さを感じていないのではありませんか。太陽は、偶然に存在しているのではありません。私たち人間はなぜ意味を考えるのでしょうか。すべてのことに意味はないという無神論や、不可知論という思想も意味を求める知的作業の証明です。すべてが偶然に存在するという哲学も、太陽の存在理由を説明していません。創造主であられる神様は、人間を愛してすべてのものを造られたというのが、聖書の与える存在の意味です。「人間は考える葦である」と言った科学者で哲学者パスカルは、神の存在を信じる方に賭けると言いました。

「わたしに従う者」とは
それはイエスを救い主と信じることです。従うことは、行いを求めることばではありません。ヨハネの福音書の14章9節では、「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか」と言われました。同じ11節に「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい」とあります。つまり、主イエスに従うとは、聖書で言われているように、イエスを救い主と信じることです。それ以外に私たちの救いはありません。イエス様をご一緒に信じて、闇に打ち勝って天国に行く備えをして、世界の光の一つに加えて戴きましょう。信じる人は、「あなた方は世界の光です」と約束されています。

To "成長詩第373号"

  『次の目標』 西村敬憲牧師 2024.05.26発行

 夜のスポーツニュースを見ていたら、ポルトガルから帰国したカズこと三浦知良(かずよし)氏が映っていました。ポルトガルの2部リーグ、オリベイレンセで2シーズンを終えて5月21日に羽田空港に着いて取材に答えていたのです。帰国前には、クラブを通して「ゴールも、出場機会もほとんどないまま終わってしまい、悔しさの方が多かった」とコメントをしていた通り、「起きてから寝るまで、サッカーだけを考えて過ごした。その意味では良かったが、プロとしては試合に出て結果が出ない限りは、いい結果とは言えない」と自分に対して厳しい言葉で語っていました。 しかし同時に、朝10時から始まる練習では「ミウラ、走れ! もっと速く走れ!」と若手と同じ過酷なトレーニングを続けても、「とにかく必死になって自分の100%を出して、自信を掴んだり、期待したり、そういう日々が楽しくて、幸せだったなと。」笑顔で振り返っていました。 カズは次のシーズンでプロ40年目になりますが、国内での現役続行を決めているようです。この人の生き方を応援するひとりにトシこと田原俊彦さんがいます。「アイツも分かっているけど、日本のサッカーJ1ではもう、活躍できないわけじゃないですか。僕と同じですよ。ただ、サッカーボールを蹴ることがカズの人生なんですよ。僕が頑張ってステージ上でマイクを持つのと同じです」。

 今年の2月の誕生日にはお互いにラインでこんなやり取り。

 「ハッピーバースデー、57歳。まだまだ若いな。オレは63だって。腰が痛いはずやん。いい年になることを念じています」と。すると5分後に「ありがとうございます。ここからが勝負ですね。頑張ります」。トシさんは「『ここからが勝負』とは、スゴい」って、「将来、何になるんだろう、いつまでやるんだろうと思ってます。本当に謎」とお互いの生き方に通じるものがあるのでしょう。

 イエスの愛を地中海のギリシア世界からヨーロッパまで伝えたパウロは、その3回目の伝道旅行の終わりにエルサレム教会に戻ることを決めましたが、その時にこう語りました。「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と(使徒の働き19章21節)。実はこれまでに数え切れない妨害や迫害にさらされ、投獄やむち打ち、さらに仮死状態になったこともあったのです。もう十分ではないかと思うのですが、彼はさらにローマ帝国の中心、すべての道が向かう帝都ローマでイエスの愛を語ろうとしているのです。世界を目指して、まさに「ここからが勝負」という言葉がぴったりです。強い人だと思うかも知れませんが、自分の弱さに悩んでいたことを告白しています。そして、「私が弱いときにこそ、私は強いからです」とイエスの愛によって力が与えられていることを語っています。

 その強さというものを言いかえるなら、幸せだということだと思います。パウロは、やめたければいつでもやめてよかったのです。彼の教養があればいくらでも必要とされる場所はあったはずです。でもどんな苦難があっても挑戦し続けようとしたのは、そこに幸せを見出していたからだと思います。だから彼の書いた手紙には、「喜び」という言葉が数え切れないほどあるのです。 キング・カズもこれからのことを聞かれてこう言っています。「自分がどこで、どういうプレーをしてサッカーをやりながら幸せを感じるかが大切だ。」こんな幸せを持つことができる人は多くはないかもしれません。でもパウロの幸せは、私たちにも招かれていると思います。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)。

To "成長詩第374号"

  『イエスへの家族批判とその救い』 赤江弘之牧師 2024.06.30発行

 12弟子が選ばれた後、イエス一行が戻った家はカぺナウムのシモン・ペテロの家であった。前に、ペテロの姑と中風の男が癒され他場所である。当然のように群集が押し寄せてきたので、一同は食事をする暇もなかった。イエスは、この家を拠点にしてガリラヤ地方の各地で伝道していた(マルコ3:20)。  

「身内の者はイエスを連れ戻」そうとした。(21)
 人々が「イエスは気が変になっている」と言っていたからである。家族もそのように思ったのである。三〇歳になるまで一緒に生活した家族は、一番よくイエスを知っていた。まじめな働き者の大工で、母や弟妹の面倒をよく見ていたことであろう。町でも立派な青年だと評判であった。あんなに家族を大切にして、責任を持っていたイエスが、突然家を捨て、家族を捨てて、ユダヤの国を放浪したのである。その家族が、今やイエスを狂人とみたのは、イエスの生活の突然の変化を見たからで無理のないことであった。突然の職業放棄、家族放棄は、それまでのイエスには考えられないことであった。 家族から見ると、神の国の宣教だと言って昔から行きわたっているユダヤ教を批判し、律法学者と衝突し、迷信じみたことを教え、しかも自分があたかもメシアであるかのようなことを言いふらしている。これは神を冒涜することであり、ユダヤ教社会では許されぬことであった。国民の誇りとしているユダヤ教信仰に反する生活を見過ごしにはできない。それに反して汚れたツァーラートの病人や、憎むべき取税人の友となることなど、まじめなユダヤ教徒のやるべきことではないという理由であった。さらに、イエスの奇蹟は魔術とみられ、普通の人間にはできない魔術を行って、人を惑わそうとしているというユダヤ教の教師ラビたちの教えに影響されていたのである。それがユダヤ人社会の一般常識であった。  

イエスの家族の救い
イエスのことを最もよく知っているはずの家族が、イエスを狂っていると思い、連れ戻そうとしたのは皮肉なことであった。イエスの神の子としての活動は、人間の世界を超えた神の国に属することであったので、人間的なイエスの側面を最もよく知っている家族が、最もイエスのことを知らなかったのは、当然のことであった。 イエスが後に、「家族の中に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た」といわれたのは、ご自身が経験されたことであった。それはマタイの福音書10:34~39にある。わたしが、イエスの福音のために会社を辞めて神学校に行くことを伝えた時、父母をはじめ、家族・親族全員が激しく反対した時の状況が昨日のことのように思い出される。 信仰によることは、しばしば人間的な知識や学問や常識に反することに見られることがある。イエスの家族は、イエスを愛するゆえに連れ戻そうとしたのである。イエスは、その愛を知っていて、ご自身の十字架の使命に突き進まれたのであった。

 イエスは、母マリヤの老後を弟子のヨハネに託し、弟ヤコブはイエスの死後、イエスをメシアと信じるようになった。それはおそらく復活のイエスに接してからであろう。第一コリント15章7節でパウロは、ヤコブへの顕現を語っており、それがヤコブの回心の動機であったと思われる。「その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。」その後ヤコブはエルサレム教会の指導者となり、パウロが回心して後エルサレム教会に行ったとき、ヤコブはペテロと共に教会の柱であった(ガラテヤ1:17~19、2:9)。

 イエスの男兄弟四番目のユダは、新約聖書黙示録の前の「ユダの手紙」の著者である。ユダは自分のことを「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから」と書き出している。 彼も復活前のイエスを信じていなかったが、復活後は弟子の内に数えられるようになった(使徒1:14)。イエスの家族はすべてクリスチャンになっていたのである。そして、西大寺の群れも家族の救いによって成長してきた。あなたの家族の救いも信じて祈りましょう。

To "成長詩第375号"

  『あのチョコレート』 西村敬憲牧師 2024.08.04発行

 どこの店に行っても目に付くチョコレートは、明治かロッテになるでしょう。国内シェアを圧倒するこの二つは会社も大きいです。明治だと売上高で9000億円、ロッテは2000億円にもなります。ところが、どういう調べ方かわかりませんが、「チョコレート市場売上個数」の一位は、有楽製菓という年間売上高が154億円の会社が出している「ブラックサンダー」です。それなら知っているという人は多いと思います。大手の定番、ガーナとかコアラ、たけのこ、きのこなどに負けないくらい人気だそうです。

この「ブラックサンダー」が発売されて30年になる今年の夏、九州限定のパッケージ「アリガトサンダー」が福岡の天神地下街で配布されました。さらにその日には、九州の7つの地方紙にフルカラーの感謝広告が出ました。「九州のみなさん、あのとき助けていただいたブラックサンダーです。」というコピーの下にデコボコのあのお菓子が大きく写っている全面広告です。

有楽製菓は、東京の小平市にあるかつては駄菓子メーカーでしたが、これまでの「チョコナッツスリー」に食べ応えのある食感をもった新しい駄菓子として「ブラックサンダー」を誕生させました。ところが、原材料にこだわったことで30円という高価な駄菓子になってしまい売れずに、わずか一年で生産終了に追い込まれました。

ところが、九州の営業担当者が、お客様にしている業者が熱望していると専務に直談判を繰り返して、やっと残っている袋の分だけということで製造を再開しました。それから、いろいろなところで広がり、内村航平さんが北京オリンピックにまで持って行くほどのサンダー好きを公言して、ついに不動の人気を得ていきました。昨年末までに累計17億本が売れています。

ということで、30周年の今があるのも、あの九州の人たちの熱意のおかげだというわけです。さらにもう一つのプロジェクトもあって、「ブラックサンダー恩人探し企画」。7月いっぱい情報を募集しているとのことで、発表も楽しみです。

実はこの会社は、6年前からガーナなどで原料のカカオの収穫から出荷までに児童労働が深く関わっていることを知り、日本ではまだ関心の低かったこの問題への取り組みを始めました。さまざまな課題を乗り越えて、現在は児童労働撤廃の取り組みをしている企業による「スマイルカカオ」を100%使用するようになっています。このような経営の姿勢はあの「感謝」を届けようとする思いにもつながっているのでしょう。 さて、イエスがある村で10人の重たい病気の人に迎えられました(ルカの福音書17章11~19節)。ツァラアトと呼ばれるこの病気にかかると伝染を恐れられ、治ることはないとされて区切られた場所でしか生活が許されていませんでした。彼らはイエスに遠くから「あわれんでください」と訴えると、イエスはすぐにその病を調べる祭司のところへ行くように言われました。彼らがその言葉通りに出ていくと、途中で完全にいやされたのです。すると一人だけが一目散に戻ってきてイエスの足元にひれ伏して感謝を表しました。イエスは彼を喜びながら、他の9人が引き返してこなかったことを嘆きました。

感謝とは、相手への敬意や信頼から生まれるものです。そしてそれはそこからのその人の歩みに広がりと豊かさを加えていくことになります。この病気が治った人はイエスへの深い信頼をもって、この後の人生の課題を乗り越えていくことになったのでしょう。感謝をしない人というのは、自分の力を過信しているために世界が小さくなっていく人だと思います。礼儀のない態度や暴言なども自分だけしか見えていないことを表しています。感謝をすることは、その思いやりから世界を変えていく勇気を生むことになります。イエスは彼にこう言われました。「立ち上がって行きなさい」。私たちは感謝から次の一歩が見えて来るのではないでしょうか。

To "成長詩第376号"

Table of Contents